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写真の成立が従来の写実的な絵画の存在を脅かし印象派を生んだ

というのが通説かどうかは存知得ませんが、屡ば上記のようなものを見かけます。
wikiを使用して調べる限りでは、

「写真」
ダゲレオタイプは、産業革命の頃の中産階級から沸き起こる、肖像画が欲しいという需要に応えるため、1840年代のヨーロッパに熱狂的に広まった。
この肖像画需要は、油彩画では量的、コスト的に合わなかったので、写真技術の発展を後押しすることになった。

印象派
1874年にパリで行われたグループ展を契機に、多くの画家がこれに賛同して広まった。

で、「写真の大衆化(1840年代)」と「印象派の普及(1874年)」となりますので、歴史的にみれば間違いはなさそうです。
ただし、若干印象派が世間的に認知されうるまでに時間がかかりすぎな感も否めませんが……
とはいえ、草分け的存在はもっと早くから存在したのかもしれませんけどね。


ここでは写真は肖像画を残すための一つの装置として、即ち被写体の形をそのまま残す装置として存在していると思います。
が、よくよく考えれば、写真が必ずしも人の肖像を正しく残すとは限りませんよね。
というのも、例えば、「写真うつりが良いね」とかいう言葉は、実際の人物と写真の人物と差異が生じる時に言う言葉です。
(これを述べるのは極論かもしれませんが)印刷物に必ずしも実物と同じ色が反映されないかもしれません。
今の性能が良いプリンターはどうか知りませんが、つい最近までのプリンターなんかは恐らくは少なからず色がずれたと思います。
結論として、同じ被写体を取るにしても、同一性を保って写真になるとは限らないのではないか、ということです。
差異が生じなければ、写真は芸術となり得ないでしょうしね。


酷い話、ここまでいけば妄想の類でしょうが、果たして個人間で(色覚異常とは別に)同じ色を同じ色として認識しているかどうかすら疑問です。
Aさんは、「緑を緑」と、「黄を黄」と、認識出来たとします。
Bさんは、「緑を黄」と、「黄を緑」と、認識出来たとします。
そうすれば、Bさんは、世間的な色の識別が出来てなくても、それに気付くことなく、全く問題なく生きていけるのではないでしょうか。
経験的なことですが、ある色とある色の中間の色(であろうと思われるもの)に対して、「あれは赤色だよね」「いや、茶色だよ」というような類の会話をしている時にたまに不安になります。
人と知覚できる色の類が違うのかもしれない、と。


ここで妄想から話は戻しますと、反復行為も、写真と被写体の関係のように、一つの行為とその後の行為とは同一性はないのではないでしょうか。
結局、勉強等で復習が嫌いな人は「復習」という行為が全く以前と同一のことをする、という観念に捕らわれ過ぎなのでしょう。
以前の自分もそうでしたが……。
反復行為の中に差異を生み出そうとする、つまり、何か+αを見出そうとすれば、そうそう反復も苦痛ではないはずです。
そもそも、運動で同じことを日々繰り返すトレーニングに有用性が認められるのに、勉強も同じことを何回か繰り返すことに有用性が認められないのも変な話です。



全ては無から生じる訳ではないのと似ていますよね(というか根本は同一かもですが……)。
どんな新しい発見にせよ、どんなに素晴しいものにせよ、今までやってきていたことに立脚されてこそです。
それは一種の差異を生むことと同一なのかもしれません。
積み重ねがないと、それを認識する能力が備わるはずも無く、それを見逃してしまうことでしょう。








……と、最近勉強で読んだ文章に対して総合的に思うところを書くとそんなことなのでした。
点数が悪かった回のセ試は間違わないための何かを見出せるように積極的に頑張ります……