[本棚]――[書籍]――[第28回]――[ミシェル・フーコー]

ミシェル・フーコーの画像
ミシェル・フーコー
内田 隆三



ISBN:4061489895












日本語でおk
(恐らく「日本語で話してくださって良いですよ」という意味を持った挑發の言葉らしいです)





















……と、ネット上のスラングを眞似したくなる位に難解でした。
そこらで出題される現國の問題よりも遥かに酷い氣がします。
實際、下手すれば、そこら邊の哲學者の文章より難解なのではないでしょうか……

法學者と哲學者の言葉は難解である、というのは凡その方が認める事實だと思います。
前者については、自分が或る院生の方からお聞きした話に據れば、とある法學の先生は一文を1000字以上も句點を使わずにお書きになるそうです。
後者については、ソーカル事件に代表されましょう(フーコー自體は非難の對象ではなかったそうですが……)。
兩者とも出來るだけ專門用語を用いて難解に書くことで敷居を高め、価値を高めようとしているにしか思えないのです……學問は萬人のために用いることが出來なければいけない筈ですが。

そういう譯で、何度も寄り道するようにいろんな概念を持ち出されると混亂し、非常に難解に感じてしまうのです。
……無論、第一の原因は自分の不勉強ですけどね(´∀`)



で、話の内容に少し觸れれば、パノプティコンは納得出來るにせよ、司祭制というのが未だに疑惑が拭えないのですが……
マルサスの『人口論』あたりも何か司祭制と関係あるのでしょうか、と勝手な憶測を語ってみたりです。

これがフーコーの仰るようなパノプティコンに相當するかどうかは分かりませんが……
例えば、なんとなく家の中に全身が映るような大きな鏡を置くこと、に似ているように思えます。
鏡に映る姿を見ることで他者の目を否應なしに意識してしまい、プライベートの場ですらも他の目に絶えず晒され續けられていること、なのではないでしょうか。
そして、内面までに鏡を置くようになってしまっては、それこそ術中にハマっていることになるのでしょう。
「他者に自分はどう見えるか?」を常に意識し、それを行動基準としてしまうのですから。

いずれにせよ、フーコーが仰るようなもののしがらみから脱却したければ、常人から狂人になるしか逃げ道はないように常々感じてしまいます。
……自分が皆様から如何様に見られているかは存知得るところではないのですが(笑。




……にしても、こんな本を讀むと、所詮哲學なんて概念を書した言葉遊びに過ぎない、と反感を抱いてしまうものですが……
ここは謙虚になって、構造主義をきちんと勉強した後に讀み直した方が良さそうですね。
悔しいから、頑張ります(何。