[本棚]――[書籍]――[第41回]――[歎異抄]

歎異抄の画像
歎異抄
金子 大栄



久々に書籍の感想です。
別段今まで讀んでなかった譯ではないですが……
意識が模試等の方いってしまい過ぎました。
意図的に書かない分野もありますが、矢張りその時意識が向いている順から書き残してしまう譯です。


周知でありましょうが、唯円親鸞の教えが曲解されるのを嘆いた作品が『歎異抄』です。
ですから、理解して貰えるのが主目的な筈で然して難しい文章ではない平易な古文の筈ですが……
理解するには至りませんでした(;つД`)
矢張り、仏教独特の用語や言い回しのようなものが多様されているのに理解を阻まれている感じです……

そこで讀み間違いを前提として、特に一つ気になったのが
「善悪は所詮人の手によるもので、本来の善悪は仏によるもので、我々にはただ念仏しかない」
という旨ですね。
宗教全てに言えそうな気がするのですが、基本的に宗教と学問は相反するものなのではないかとしばしば感じます。
善悪の判断を人智で設定ことを研究するのが法学だとすれば、本来仏に定められる筈の善悪ですから法学は不要な筈です。
実際に、キリスト教は西洋で科学の進歩を妨げてきたことですし……
畢竟するに、宗教全般に共通することは「無知」であることが良い状態のように思われます。
念仏だけ唱えているある種の盲人になるのが良い、というのです。
それは、蓋し、その宗教の長が統一し易いようにでしょう。
……と、半分くらい某影響で半分くらい自分の妄想ですが(´Д`;)
でも、「学問に励め」というように推奨する宗教は今まで聞いたことありません、自分が不勉強だからですが。

……と、ここまで貶しておいてアレですが、そういう宗教に何処か崇高なるものを感じる部分もあるのですけどね。
(そもそもそうじゃないとこんな本讀まない譯でして……)
それは自分が弱い人間で心底では密かに救われたいとか甘ったれたことを考えているからかもれませんね('A`)




ところで何時だったか覚えてませんが、
『「悪人正機」の「悪人」を都合よいように解釈して犯罪を肯定して犯罪行為をした連中も居る』
というようなことを何かの授業で教わった記憶があるような気がするのですが……。
歎異抄』には格別そんなことを触れてなかったように思うのですけれども……
(法典を学ぶことや、無理に善人になろうとすること等が主に唯円から咎められてたことだったか、と……)

これも、自分の妄想の類だったでしょうか(汗。