ラカンの「鏡像段階論」に非常に納得いきません。
簡単に言えば、6〜18ヶ月の内に鏡に写る自分が自分自身ということに気付いて同一性を獲得する、といえるものだと思うのですが……
言葉尻を捉える感がなくもないですが、鏡の無い家もしくは時代だったらどうするのでしょうか。
日本の昔話に、水面に映った自分の顔を見て「亡くなった父ちゃんが居る!」とかいう話もあったと思うんですが、ある意味で、鏡などなくても自己同一性は獲得出来ていたという証左になる筈です。
実際は可也面白い論だとは感じますが……
……と、こういう風に、実際に文章も読まずに、要約された文章を相手に非難するのは非常に愚かしいことだと思いますけどね(自虐。

とかいいつつ、『古事記』を読んだことあるのに、『古事記』に関する内容について間違った時はショックでした。
「黄泉の国=不浄」でしたっけ……あんまり記憶にない気がします。


話を少し戻しますと、実際に、赤ちゃんのころは母親と自分との区別さえついてないと言いますよね。
誰もがも赤ちゃんだった頃があるのに、それを忘れて思い出せないのも不思議な話ですけれども……
ところで、『元亨釈書』をほぼ読了した訳ですが、その中にこれにちょっと関連する風習が日本にあったようで……
一部の地域では、明確な年齢は忘れましたが、3歳かそこら辺になると「前世は何だったか?」と親から子に尋ねていたそうです。
それで『元亨釈書』の流れとしては、前世は高僧だと答えた子がまた僧になっていろいろと成すというような話だったと記憶しています。
ちょっと笑えますよね……今の世になっても前世を気にしている風潮がありますし。
前世に関しては、今の自分は、肯定も否定もしません。
ただ、問題は現世で何をするかだと思います。


常々思うのは、生まれ変わっても前世の記憶があるというのならば、何故に現世でも受験勉強しなければならないのか、ということです。
つまり、前世の記憶が常に保持されるのならば、毎度毎度生まれ変わる度に教育される必要はない、ということです。
それとも、前世の自分は相当な与太者だったのでしょうか……?


ところで、受験倫理的にはアリストテレスの友愛とキリストの愛とが比較的対比されるそうですよ、価値あるものへの愛と無差別の愛ということで。
不思議な対比だと思いませんか(何?



……と、ラカンの「鏡像段階論」に何か猛烈に不満を覚えた勢いで書きすぎましたね。