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文庫: 254ページ

出版社: 岩波書店; 改版版 (1979/01)

ISBN-10: 4003312414

ISBN-13: 978-4003312414




西田幾多郎氏の非常に有名な書物ですね。

内容に関しては、お世辞にも理解しやすいとは言い難いです。

自分のような愚人だと、甚だ難解に感じます。


教科書的には、芸術に没頭している時に主観と客観が同一である――主客未分であるとあったように記憶しております。

故に、それが自分の中ではそういう特別状況下において主客未分であるかとばかり勘違いしておりました。

西田氏の仰るところに因れば、全ては主観か客観かの見方の違いだけに過ぎないそうですね。


少なくとも文章を見る限りでは、ヘーゲルの大きく影響を受けているように感じました。

他に思ったのは、多くの西洋の哲学者の思想を引用していることと思いましたね。

時代背景的なものもあるかも知れませんが。




正直、西田氏の仰るところの主客未分は殆ど分かりません。

読んでいく内に分からなくなってきました。

実のところを言えば、「絵を描くことに没頭している状態」という具体例を出された方が成程と感じます。

矢張り、こういうことを経験するに感じても、教科書とはよく練られているものだと思います。




西田氏が仰るところとは違うでしょうが、究極的にはこの世に一切の区別はないのかもしれない、とは時に思いますね。

(´-`).。oO(西田氏は「自分」と「花」に区別はない、というような旨を仰っていたとは思いますが……) 

他人から影響を受けてからこそ自分が居る訳ですし、一方で自分が相手に影響を与えることも可能ですし。

従って、自分の周りに居る人は、ある意味では、自分を映し出す人とも言えます。

そういう訳で、自分と他人には区別はないのではないでしょうか。

先日、友人ととあることに不満があり「俺らで世の中を流れを変えれば良いんじゃね?」という感じで話してましたが……

実際に、誰にも周囲を変える可能性があることをあれば、ある意味では、今の世界は自身が望んだ世界なのかもしれません。

結局、死んでしまえば客観的に知覚するなんて土台無理な話なのですから、真個に自分から乖離した客観があるということはない気がします。

因って、目の前に存在するもの全ては客でありながら主である……というのは、詭弁ですよね(´・ω・`)