[本棚]――[書籍]――[第46回]――[純粋小説論]


横山利一氏の作品です。

横山氏に拠れば、文学には
「純粋文学」「純文学」「通俗小説」「藝術文学」「大衆文学」
の5つの概念があるそうです(作品中において後ろの2つには特に言及しておられませんが)。
「通俗小説」は偶然が多過ぎて人を喜ばすことに終始していて、一方、「純文学」は偶然を廃して人の生活をそのままに描写する極端なリアリズムに陥っているらしいです。
それを打破するには、日本には殆ど存在しないない「純粋文学」――海外のトルストイバルザック等の文豪に見受けられる――しかないとのことです。
ちなみに、「純粋文学」とは偶然性を多く含んだ「通俗小説」でもありながらも、それを感じさせない「純文学」以上のもの、らしいです。
……正直、「純粋文学」というのが何なのかは自分にはイマイチ分からなかった気もしますが……

畢竟するに、横山氏の冒頭の一文
「もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に文芸復興は絶対にあり得ない」
ということになるのでしょう。


普遍的な題材を如何に調理するかということ、それは時折絵画において目新しい題材ばかりを描く事が非難されるように、は大事だと思ってます。
自分が時折ある特定のジャンルを叩くに似た発言をするのは、恐らくはそれらの作品が余りにも御誂え向きと感じ取れるからでしょう。
それこそ日常を題材として、ムンクが求めるところでもある人間の懊悩の感情を緻密に書き上げる方がより高級なこと……と自分は勘違いしている嫌いがあります。
ただ、実際のところ、そういう感情の微妙な差異というのが描かれている小説は近年少なくなってしまっているのではないでしょうか?



と、愚人が偉そうに知ったかぶりで語っておりますが……

実際のところ、究極的に、純文学だろうが、通俗小説だろうが、ラノベだろうが、そんな類の小説にはあまり関心はない人間です(ぉ。
内村鑑三先生のお考えに同調してますが、
人の心を雷鳴のように打ち、心から情熱を溢れ出させ、一旗あげるように行動を起こさせる、
そういう作品こそを本当に文学と呼びたい人間なのです。
源氏物語など讀んでもののあわれに浸るような本を読むより、若者を突き動かすような本の方が……
……尤も、そんなものは偉人の演説を収録した本くらいでしか存在しないのでしょうが(笑。


ともあれ、今から半世紀以上も前から、真の小説とは何か、と問うておるのは興味深いものですね。