[本棚]――[書籍]――[第50回]――[十和田 奥入瀬 八甲田―千葉克介写真集]

十和田 奥入瀬 八甲田―千葉克介写真集の画像
十和田 奥入瀬 八甲田―千葉克介写真集
千葉 克介


東北の旅行先として有名らしい(としか、現地の人間ではないので、いえません)場所の風景の写真集です。

荒んだ心の持ち主なので、「この水しぶきの具合とか不自然だか何かしら潤色されたのでは?」とか思ってしまう写真もないこともないですが……
(´-`).。oO(自分の思い過ごしだと信z(ry じゃなくて自分の思い過ごしでしょうが……)
いずれにせよ、美しい風景に感興致しました。
確かに、自分が人工の都市の風景などに自然に勝る美しいものは存在しないと考えている傾向の人間だからということもあります。
ただそれを差し引いても、イルミネーションの風景が一番綺麗とかいっている人はきっと自然も知らぬ都会っ子なんだと思ってしまいます(何。
水しぶきの白とコケ類の緑の対比とか、積雪の正に一面の白銀とか、美しすぎます。

それと、感覚的ですが自分が住んでいた風景とは何処か違うように感じます。
無論、北と南では自生する樹木が違いましょうが(笑。

八甲田といえば、八甲田山で悲惨な事件がありましたよね……




……写真集ひいては美術書やイラスト集を見る度に何時も思うのですが、対象を眺めるだけで感想を述べるなんて実はおこがましいことなのではないか、という疑念が沸いてしまいます。
実際に、今回も眺めるだけで感想を述べましたので、本来ならば自分の疑惑の主義に悖る譯ですが……
畢竟するに、「自分が目を通して見ているものは本当は見えていない」と感じてしまう譯です。
例えば、我々は人を顔でだれがだれであるかという同一性を確認できますが、その細部を正確に思い出すのは殆どの人にとって凡そ不可能なのではないか、ということです。
自分は友人の顔は覚えてますが、自分は彼の目や口を正確に紙面に再現することは出来ません。
観察力が良い方(押並べて芸術家の方くらいだと思うのですが)を除くと、殆どの方は不可能なのではないでしょうか。
果たして、同一性を確認できるくらいの対象の細部を思い出せない、というのは、本当にその対象を見てるといえるのか――それが自分の眺める時の不安です。
敷衍すれば、多くの方もきっとそうだと勝手に邪推してますが、何処か当たり前のように思っているものを見落としているのだと思います。
今回の写真集でも、日光は水面に対してどう反射するか、雪は樹に対してどのように積もっているか、etc……
間違いなく自分の眼はそれらを見れば、光が水面に反射しているとか雪が樹に積もっている、とかは理解できるのです。
が、それが実際にどのようになっているかは分かりません。

ですから、本当に見るというのは、再現できること、即ち、紙面に描けること、ということが自分の中で成り立っています。
「眺める」という行為だけに終わってしまえば「受動的」なものの見方としか思えないのです。
「描く」という行為まで達し細部まで再現できて初めて「能動的」なものの見方だと思うのです。
そういう譯で、今回、十和田の風景を模写しない限り自分は真個に十和田を見たとはいえないと思ってます。
それが美しいというのだけは受動的に理解出来ただけです。

そう思うと、矢張り、この写真集を見て感じたことを述べることさえ欺瞞になってしまうのではないか、と思ってしまうのですが……




関係ないですが、「潤色」という言葉を使ったので思い出しました。
第一回の京大実戦で「color」が動詞で使われていたので、そのままに「脚色する」と訳したのですが……
模試の解答では記憶が曖昧ですが「誇張する」なんかと訳していて、「脚色する」はダメなのかと思いショックを受けてました。
(´-`).。oO(とは思ったものの、今思えば「誇張」≒「脚色」っぽいですよね(ぉ)
それで「color」にも「潤色する」という意味があるようです。
以前に言葉の輸入が行われていなかったと仮定すれば(「沈黙は金」が西洋の諺のように)、「色づける」に対して同じ概念を持っていたことになるのでなかなか興味深いことではないかと思っております。