第六九回大会シンポジウム「現代における<死>」総括


(知らなかったこと)
・二〇一〇年七月に日本では改定臓器移植法が施行され、その直後から、本人の同意なしでの脳死者臓器移植が国内で多数行われるようになった。
・二〇一〇年一一月には、裁判員制度になってから初めての死刑判決が実際に下された。
・最近の二〇〇八年、国連自由権規約委員会から日本政府に対して行われた死刑廃止および、死刑への人道的アプローチを求める勧告を牽きつつ、そしてまた世界の三分の二の国々がすでに死刑を廃止している。

00年代後半にこんな動きがあったとは知りませんでした。



死刑廃止論の立場)
臓器移植では「死」の決定における選択権の在処が重要な問題となるが、死刑においては他者に「死」を迫ることをどのように道徳的に正当化できるのか、その権利をだれが持つのかという点が本質的な問題となる。そして臓器移植の場合と同様に、この本来の生命の尊厳に対する慎重な思考を要すべき問題が、増加する犯罪報道に煽られた憎悪感、社会的な排除の論理、公共性という名目などによって慎重な本質的思考を損なわれていること、マニュアル化され制度的に社会化された権利意識が排除の論理を助長し、特に誤判可能性の問題を考慮するとき、それがときには無辜の人に対する正当化された殺人にまで至る危険性があること、さらに死刑執行が急増しつつある現代日本においてはとりわけそうした傾向が強く、人権概念の理解が諸外国に比べて遅れていると考えられることを強く指摘された︒



(そもそも現代の死生学が根本的に陥っている現象)
生命ないし生存への愛という視点のみにとらわれ、もっぱら人間の自己保存や生への欲望に基礎をおく現代の死生学は、結局のところ生命や死の問題についても人間の社会的な権利要求や正当化へと向かい、個人としても類としても、人間の利己的な存在仕方を超えた思考ができないことを指摘された。そして、あるべきメタ死生学は、人間への利己的な愛ではなくむしろ世界への愛、存在への責任を全うするものであり、そのような利他的視点に立つことが同時に死を超えるものの希求となり、それがまた世代をつないで持続する「物」を重視する立場に連なることになるという、広義の世代間倫理と、死生以前の世界の事物へのケアを主張された。



(調べる)
メタ死生学







 どちらかというと、死刑賛成論の立場から。


 『死刑においては他者に「死」を迫ることをどのように道徳的に正当化できるのか、その権利をだれが持つのかという点』ならば、なおさら「死」を迫ったような容疑者は死刑で良いと思いますけどね。
 『特に誤判可能性の問題を考慮するとき、それがときには無辜の人に対する正当化された殺人にまで至る危険性がある』のは本当に危惧すべき内容だと思います。しかしながら、この問題点は捜査の精度の問題であって、論点のすり替えのようにも感じます。関係者ではない自分からすれば、昔に比べ今は、だいぶ警察内部で行われてることも明るみに出るようにはなりましたし、検査に用いる技術もかなり精度が向上したので、冤罪の確率はかなり減ったのでは、と考えてしまいます。関係者ではないと分からない部分もあるのでしょうが、いずれにせよ、冤罪が出ない体制を作ること、死刑を廃止することは別物でしょう。
 それこそ死刑囚はただ死刑するだけではもったいないので、治験薬の人体実験になってもらう、臓器提供のドナーになってもらう、などした方が、過激に思われるかもしれませんが、非常に合理的だとは思います。今は動物愛護団体の動きもあり、大学内の動物実験すら規制されつつありますので。動物愛護に熱心なお方は、当然、肉類を食べたり、毛皮とか買わないのでしょうが、薬を使わないつもりなのでしょうか……?いつも疑問に思ってしまいます。


 過去を生きた人間ではないから分かりませんが、やはり今は愛護とか人権擁護とか行き過ぎている感がします。